根本師匠のお弟子さん制度での宿題のひとつ、
◎グループメンバーでの一対一での電話or対面セッションを3本。
やってみて大きな発見と収穫(?)と、そしてまぁまぁ落ち込んだ。なんか考えちゃったんだよねぇ~。
なにを偉そうなことやろうとしてんの?自分!ってね。
自分の心に潜る作業
3人の仲間に話を聞いてもらった。3回とも同じテーマで同じ導入文。これは決めていた。あとはどういう話の展開になるのかはその場の雰囲気で変わっていくんだろうなと思っていた。
もちろんそれはその通りで、ベースは変わらないが話す順番とか、話すこと話さないことも変わった。
面白いことに3回とも問題(ともいえないかもしれないけど)は変わり、着地点も変わった。答えなんてないことを話しているのだから当然っちゃ当然。そしてその着地点は3回とも涙が出るほど私が欲していたものだったのだろう。
自分自身の中に眠る問題(いい言葉が見つからないからこう記しているが問題ではない)が分かって、それをどうこうしようとか、しないとかそれが浮かび上がってきた感じ。
ああ、問題じゃない。いい言葉を今思いついた。『痛み』だ。自分の中に潜んでいる痛みを見つけてもらったんだ。
カウンセラーの定義にはまってしまった
仲間に話を聞いてもらいながら、カウンセラー目線でも俯瞰しながら話していて、仲間がどう返してくれるかをよく聞いていた。
それはそれは一つ一つの相槌も、コメントも、提案も「なんか…すごいな…私にはできない」と思った。
特に提案するということ。私は提案をしてほしいタイプのようで、提案をしてもらってありがたかった。痛みを治す方法を導いてくれるのだから、それはもちろん欲しいに決まっている。
そうか、そうすればいいのか、そう考えればいいのかと思わせてくれる人を求めている人は多いはず。私と同じように。
そうなりたい。提案できるカウンセラーになりたい。と思った。
そこで落ち込んでしまったのだ。
提案してくれるカウンセラーっていいよね。でも自分には(今は)できないよね。それってカウンセラーになれるの?ってね。
定義にはまってしまっているのは分かる。色々なタイプのカウンセラーがいていいのだし、自分の背丈にあったやり方をすればいいのだから…
それはわかっているから!!提案ができないなら傾聴型になればいいでしょ?って話。わかってる!
でも!!って逡巡している。
そういうクライアントは来ないよ、たぶん
3回とも着地点も違えば、ルートも全く違った。カウンセラーもクライアントも空気を読み合って話をしているんだろう。同じ話をしようと思ってもそれはできない。
相槌も返しも、質問も違うんだから。
そういう目線でこの『痛み』に向き合わせてくれるのか…と感動しながら話をしていた。人の心は複雑で、一本の筋があるわけではない。多分水中の中にぷかぷかとクラゲが浮かんでいるような感じで『喜び』や『痛み』や『悲しみ』『怒り』が浮かんでいて、どれをチョイスして近づいていくかはわからないし、正解もないんだろう。
この人には、ここじゃない。これじゃないと探りながら話をするし、差し出すものも違えば、差し出されたものを受けとるかどうかも相手の判断だ。
空気を読み合う。
何を言いたいかといえば、そもそも提案を求めているクライアントは私を(今のところ)選ばないだろうということ。
この人はズバズバっと言ってくれて、グイグイと引っ張ってくれると思われることはないだろうってことだ。
そしてもう一つ重要なのは…
そう思っているのは私だけ
ってことだ。
言葉や空気は放たれた瞬間にこちらのものではなくなり、あとは相手にゆだねるしかない。こちらは提案しているつもりはないけれど、それを提案ととらえる人もいるだろうし、逆もしかり。どうすることもできない。それはどれだけ言葉を重ねても変わらない。
要するに…
今できることに集中してやれってことだ。
この記事を書き始めたときはぐったりしていたが、なんだか今は愉快な気分になってきた。
この絵本を思い出した。
『やっぱりおおかみ』 ささき まき
最後の生き残りのおおかみはひとりぼっち。他の動物の仲間になろうとするが、仲間になる気にはなれない。そして最後にこう気づく。
「やっぱりおれはおおかみだもんな おおかみとして いきるしかないよ」
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やっぱり私は春野だもんな。春野としていきるしかなんだよね。