仲良しのママ友と飲み会。気が合う仲間と飲むのはやっぱり楽しい(お酒飲めないけど)。
「もうそろそろ忘年会だね~。一昨年の親子サッカー大会でM子が骨折したよね。それをさ~最後まで隠してサッカー我慢してやっててさ~あとで大変だったんだよね」
という話が出た。
そこで本人じゃない回りのママたちは「言ってくれればよかったのに」「もう~心配したよ~」「我慢しちゃだめだよ~」という本音が飛び出す。
M子は笑いながら「でもさ~そこで言ったらみんなに迷惑かけるし、やっぱり言えないよね。サッカー大会が中止なっちゃったら困るし」と言った。
そうなんだよね。だいたいがそうなるんだよね。大丈夫じゃないのに、大丈夫と言っちゃうの。みんなそうやって育ってきてんだよね。
それで、周りは「言ってほしかった」って思うんだよね。
立場が逆になっても同じことをする。
「迷惑だから言えなかった」⇔「迷惑なんかじゃないよ。言ってほしかった」
お互いがお互いを思いやる感じ。嫌いじゃない。でもなんとなく引っかかるのは私だけなんだろうか?
褒められても叱られてもそれは同じこと
子どもが転んだり、どこからか落ちたりすると、やっぱり最初に出る言葉は「大丈夫?」だと思う。あたり前だ。
※時に「何やってんの!」「だから言ったでしょ!」「やると思った!」という大人もいるがそれはまた別の話。
子どものサッカーを見学していると、夏の暑い日は具合の悪くなる子どもも続出するし、擦り傷や捻挫なんてこともある。
熱中症は本当に怖いし、捻挫かと思ったら骨折だったなんてこともあるから簡単に言えないけれど、やっぱり大人は…
大丈夫か?大丈夫なんだな?よし!泣かないで偉い!!がんばっていこう!
なんて言いがちだ。大人からみて大丈夫そうなのにいつまでも寝ているとやっぱり「怠けている」と思うコーチもいるし、ママもいる。
泣かなかったことを褒められる。
泣きたかったとしても、もうそれで泣けなくなる。
大丈夫か?と訊かれて答えは「大丈夫」以外の選択肢がなくなる。
そうやっていわゆる『社会性』を身につけていくのかな?
そんなことで泣くんじゃない!泣いたって解決しない!泣けばいいとでも思っているのか??
と自分の子どもなんだか、コーチと選手なんだか知らないが、そんなことを低い声で言っている大人がいた。サッカーの試合会場での話。
見るともなしに見ていたら、その少年はニコッでもなく、ニタッでもない何とも言えない顔で笑った。まだ涙が残る目で。
すかさずお父さんだかコーチだかが言った。
笑ってんじゃない!!
もう、彼は泣いていいのか笑っていいのかわからなくなっていた。少年はどうしたらよかったのか? 私にもわからない。
私たちの脳ははそうやって大丈夫じゃないことにも「大丈夫」というように、できるだけ我慢するように、できるだけ感情を表に出さないように、それが美徳のように育ってきた。
みんなそうだからみんなわかっている
そう、少なからずそうやって育てられてきた脳は、これは大したことのないことだ、泣くようなことでもないし、「大丈夫?」と訊かれたら「大丈夫」と答える案件だと認識するようにプログラミングされている。
そうプログラミングされている脳はなかなか優秀で、「大丈夫じゃないのに大丈夫」といっている人を見抜くことも同時にプログラミングされているんだよね。
だからだいたいわかる。我慢していることを。「大丈夫じゃないのに大丈夫」って言っていることを。
でもやっぱり気持ちがわかるから声をかけるのも躊躇する。そこには我慢しているその人にもきっとプライドみたいなものもあるからね。
大声だそう 思いっきり泣こう 手を伸ばそう
だから、自分が大丈夫じゃないことに気がついたらどうしたらいいのか?って思う。誰にも言えない。ばれてもいけない。プライドがあるし、脳がそうプログラミングされているから。
隠れて発散だよね。こもって、誰も見えないところで号泣したり。
昭和だったら海に向かって「バカヤローーー」って叫ぶんだろうし
平成だったら踊りまくったりするんだろうし
令和だったらなにをするんだろうね?
とにかく、バカみたいに叫んだり泣いたりすることだ。歌を歌うのもいいよね。
それもできないところまで沈んでしまっていたら、平気なふりをしていてもいいから、
手を伸ばしてほしい。その手をつかんでくれる人が必ずいるから。必ずいることを信じてほしい。
あなたを助けたいと思っているんだよ。
助けてほしい人がいて
助けたいと思っている人がいて
そうやってこの世界は回っているはずで
義務や役割じゃなくて
感謝真ん中にして回して行こう。