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心の境界線とはなんなのか?それができたらどうなるのか?

もじゃもじゃ頭のカウンセラー 山本春野です。どうぞお見知りおきを。

「心の境界線を引くと色々いいことがあるよ」とよく言っている。実際自分自身も「ああ、心の境界線とはこういうことか」と腹落ちしてから、イライラ度も減ったし、夫を尊重することもできるようになった。

平たくいえば、「自分を大切」にすることで、自分軸が形成されて、一歩下がって相手を見ることができるようになって、その視点によって、相手と自分が違う生き物であり、感情も行動も、共有できないものだということを納得することかな。(平たくないぞ?)

なぜこっちの領域にずかずか入ってくるのか?

ずかずかと見境もなく、境界線を越えてこちらの領域に入ってくる人というのはよくいる。

軽いものから重いものまで。

例えば近所のおばさんが「あんた、子どもは作らないの?子どもがいるといいわよ。できたら3人いるといいわね。早く子ども作んなさいよ。ちゃんと旦那とやってんの?」とか言ってくるめんどくさい人もいれば、

いわゆるモラハラのような形で、こちらの領域に入ってきて、色々乱して占領していくという人もいる。

なんであんなことするんだろうね?

浅いところで言えば、「自分の価値感を証明したい」とか「夫婦なんだからあたり前」とか、承認欲求とか、自己中心的とか、いわゆるそういうことなんだろう。

で、まぁ深いところでは、寂しい孤独な人とか、罪悪感とか、無価値観とか、そういう行動をとらざるを得なかった事情があるのでしょうね。その人の事情はその人のもので、こちらがなにかすることはできないので、相談されたら一緒にその心の底に潜ってもいいけれど、そう望んでいない人のことは…

知ったこっちゃない。

というスタンスで行くしかない。

相手の領域に入りたくなってしまうのは?

○○ハラ的な、図々しい領域侵犯ではなく、気づくと相手の領域にやさしく入ってしまうとか、いつのまにか招き入れられているという場合もある。

なにか相談されたりして、親身に答えているうちに気づけば、自分の相手の領域がわからなくなっていたということもある。

言ってみれば『共感力』が高すぎるのだろうね。人の気持ちが分かりすぎる。それを自分に重ねてしまう。そして自分事のように感じてしまって、それを解決してあげられないことに強い罪悪感を持つ。

「なにもしてあげられなかった」と無価値観も増殖する。

相手の痛みは相手のもの。それを分けてもらえて、相手の痛みが軽くなるのであればそうしてあげたい。と思うことはきっとすばらしこと。

ただそこに『犠牲』『取引』はないだろうか?

『犠牲』:ほんとうはしたくないんだけど、嫌われたくないからやる
『取引』:やってあげたんだから、なにかしらのお返しがあるだろう

もし、こういう思いがないのであれば、それは領域侵犯ではないと思う。純粋なやさしさだと思う。

「こういうアドバイスしてあげたのに、その通りにしなかった」とか「親切でやってあげたのになんのお礼もなかった」という思いが出て来るのであれば、それは領域侵犯だろう。あちらの思いや痛みをコントロールしようとしているということだから。

「相手に対してできるだけのことをした、あとはあの人が幸せになることを願う」これだけで充分だと思う。

また、そっと領域に招き入れられてしまい、取り込まれるパターンもある。

相手の『取引』に巻き込まれているということになるだろうね。

「私のこと心配ならこんなこともしてくれるよね?」「愛しているならこんな犠牲もはらってくれるでしょ?」「これだけやってあげたんだから私の期待に沿うことをしてくれていいでしょ?」という思いに応えなければならないと思ってしまうと、それは相手の領域にとらわれてしまったということになる。

いわゆる依存状態で心地よい場合もある

境界線を越えて、相手の領域に静かに入っておけば「心地よい」という状態の場合もある。

自分で何も決断もしなくていいし、責任も負わなくていい、多少の不満もあるけれど、それに目をつぶっていれば、割合心地よい状態。

つまりは赤ちゃんの状態。

でも、自由はない。すべて他人軸。そこに自分はいない。

そりゃそうだよね。相手の領域にいるんだから、自分はない。

いわゆる共依存っているのは、2人の世界がほとんど重なってしまっているのに、お互いにまったくの自由がない状態をいう。

そこに慣らされてしまうと、今度は離れるのが怖くなる。離れたくても接着剤でべったりくっついているから、離れようとすると痛い。その痛みをちょっとでも感じたら、ここでいいやと麻痺してくる。

入れさせられちゃったのか、自ら入ったのかはわからないけど、結果として、どんな感情も行動も全て相手次第となってしまうと、もう境界線すらない。同化しちゃっているから。

なんでそんなになっちゃうのか?

いずれにしても、境界線があいまいになってしまう人たちというのは、自分軸がぶれてしまっているということと、自己肯定感が低いということもあると思う。

幼少期に親が過干渉だったとか、暴言/暴力を受けて育ったとか、過去に心に大きな痛みを抱えてしまったということがあれば、相手との距離感を計ることが難しくなってしまっているというこもある。

親が過干渉だったりすると、「自分でやる」という経験が極端に少なくなってしまい、どこからが自分でどこからか他人かという境界線が引きづらくなることがある。

暴言/暴力下で育つと、境界線を引いていたとしても全く無視されるので「意味はない」と潜在意識に埋め込まれ、自分というアイデンティティが築けずにいる。

こういう環境下で育つと、領域侵犯したりされたりが『普通』のこととなってしまっているということになる。

あと上記のようなことでなかったとしても、往々にして子どもと言うものは「親に愛されたい」「認められたい」願っているものなので、親の顔色を伺うということを少なからずやっている。

「親をよろこばせたい」とか「役に立ちたい」という思いが潜在意識にとインプットされてしまい、他人の思いや感情のケアをしてあげなけばという思いにとらわれてしまうことがある。

ベースにこういう思いがあると、境界線を張りにくくなるということはある。

境界線を張るには

境界線をあいまいなままにしておくということも選択肢のひとつだけれども、相手の思いや痛みを一緒に背負ってしまっていることが辛いと思うことがあるのであれば、意識的に境界線を張ってみるということもできるのではないかと思う。

基本的は「私は私、あなたはあなた」というスタンスでいいと思う。

でも、これがね~なかなかできないのよ。どうしても同化したくなっちゃう。夫婦とか親子とかは特にね。あとは親友とか?かな。

だって、そこに愛があるから~なんだよね。

心配することも、同化したいと思うことも、愛なんだよねと、私は思っちゃう。

でも、まぁこれも愛なんだけど、信頼して手放すというのもまた大きな愛なんだよね。

最初に言いたいのは「すべてに境界線を張らないとダメですよ」というわけではないということ。

入ったり入られたりなんてあたりまえのことで、それを禁止してしまうとそれはそれで辛い。

じゃあ、具体的にどうするか?というお話。

① 境界線を意識する

境界線がわからないということもあると思う。そんな時は時々「あれ、これ境界線越えられてない?」とか「うん?今私越えたか?」と意識的に見てみることもできる。

自覚するということ。だからといって「やっちゃった!」とか「完全に阻止しなきゃ!」とかは考えなくていいと思う。

意識するだけでだいぶ楽になると思う。

そうすると、おのずと何かしらの『行動』が出て来ると思う。出てこないかもだけれど、それはそれ。

② なんてたって自分軸

自分の領域を意識するためには、これは結構有効的。「私はどうしたいのか?」という問いかけをし続ける。

自分を大切にする。「誰かのために犠牲を払う」ということは自分を大切にしていないということだから。

相手の思いばかりを汲んで行動するのも、境界線越えだけど、自分がしたかったらすればいいと思う。そこになにか見返りを期待しないのであれば。

③ 鬼畜生になる

自分の欲求に素直になることも有効的。

こういう言い方をすると「それってわがままじゃない?」とか「自己中心的」とか思うかもしれないけれど、それはちょっと違って、自分の思いを成就させるために、相手に動いてもらうことが「わがまま」であり「自己中心的」ということで、「鬼畜生になる」とは、自分の思いを大切にするということ。

つまり、自分の思いを貫くだけで、相手がどうのではない。

「私がこうしているんだから、あなたもこうしてよ」というのは相手の領域侵犯だけれど「私がこうしたいからしている」は自分の領域内での出来事だからね。それを相手がどうにかしようとしているとしたら、相手がこちらの領域侵犯しているということになるから、そこは「入って来なくていいですよ」としれっとお断りすればいい。

④ 嫌われる勇気

ちょっと前に流行ったね、アドラー心理学の『嫌われる勇気』

『相手の課題と自分の課題の分離』これが結構重要。

ここがあいまいになっちゃうんだよね。これも意識的に「だれの悩みで痛みなのか」と分離していくといいと思う。

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まとめ

長くなってしまった…。

「なぜ私は『人は人、私は私』と考えられないのでしょうか」と質問をいただいて書き始めた記事でした。

そのお答えをするとしたら、

幼少期になにかあったのかもしれないし
今までに心に傷を負ってしまったからなのかもしれないし
そういう経験で「境界線を曖昧なままにしておいた方が傷つかずにすむ」と潜在意識にインプットされているのかもしれない。
『人は人、私は私』と考えられないことで、なにかメリットもあるんだと思う。
でもそのメリットはたぶん「恐れ」から来ているメリットなんじゃないかな?と思う。

だからその「なぜ」にお応えするのは難しいけれど、ひとつ言えるのは、

こうやってご自身が『問題』としてとらえたということは、そこになにかあって、それを解決することによって、もしくは解決したいと思ってアクションを起こすことによって、そこに幸せビジョンを描くことのできる回答があるんだと思う。

きっとそれは既に心の中にあるから、大丈夫。

境界線がわかっていてもどうしても線が引けないという場合は、知識だけでは難しいと思う。心の傷や痛みから『恐れ』に引っ張られちゃうことがあるから。

それはひとりではどうしようもないことかも。

そんなときはカウンセラーにご相談くださいね!

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心の傷を癒して、痛みを知って、他人との境界線を張る方法の糸口になりますように。
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