夫婦関係

自作自演と罪悪感について深堀してみた。

自作自演という言葉で私は変わったとよく言っている。

この『自作自演』という言葉を聞くと「目の前で起きたことは自分が望んだことなんだよ」と言われているような気がする。

そうすると「そんなこと望んじゃいねぇよ」と思うことがほとんどだと思う。この自作自演っていうのは「あなたが望んだことですから、そのまま受け止めるしかないんです」という意味とはちょっと違う。

これには『罪悪感」が深くかかわっている。

心の奥底にはびこる『罪悪感』が、自作自演を引き起こす。「なぜ私はこの事象を起こしたのか?」と自分に問うことができる考え方、問題解決の糸口が「人生は自作自演である」ということであって、それを起こしたのはあなた自身ですよと、自分責めの材料ではない。

罪悪感が大きい人は、愛も大きい人なんですよ。

まずは罪悪感から

心理学を学ぶと何度でも出てくる『罪悪感』一般的に使われるのは「ダイエット中なのにアイス食べちゃった~罪悪感~」という感じだろう。悪いことをしている気分みたいな感じ?

でも、心理学的に言う『罪悪感』とは

「自分は罰せられるにふさわしい」とか
「自分は毒のような人間だ」とか
そういう思い。

この罪悪感が、私たちを幸せにするか否かの鍵を握っている。

自分が今見ている世界は、結局自分が見たい世界を見ている。自分自身、人生、この世界のことをどう考えているかが、そのまま自分の世界になる。

たとえば、「私は愛されるにふさわしい」と思い込んでいるのであれば、会う人会う人から「ああ、私は愛されている」と感じるわけ。事実かどうかはわからないけど。だけど、ほとんどの人(私も含めて)はそうは思えない。だってほら、あの人もこの人も私を愛してくれなかったじゃないと「愛されていない証拠」を探し、そして簡単に見つけられる。

その思いの底辺には「罪悪感」がべたーーーーっと横たわっているんだよね。

でも、それがあるのは自分でもすぐにはアプローチできない心の奥底、無意識層。それが無意識層にあると、「未来にひどいことが起きる」とか「私を愛してくれる人なんか現れないんじゃないの」っていう不安しか感じなくなる。それというのも、心の底辺に「罪悪感」がベターーーーっと横たわり「私はそんな目にあうのにふさわしい」と思い込んでいるから。

もちろんそんなこと考えたくもないし、信じたくもないので、罪悪感があればあるほど、誰かに不平不満をもって、文句を言う。だれかを攻撃することが多いと言われる。「○○のせいにする」という感じ。

でも、心理学的にいうと「○○のせいでこうなった」という被害者意識の下には…そう、罪悪感が横たわっている。

だから本当ならば、この『罪悪感』を癒さなければならないのだけれど、エゴはそれを見つけさせないようにするわけ。癒されないようにする。エゴっていうのは自我。傷ついた心。二度と傷つかないように自分の心を守るためのものだけれど、罪悪感を感じることは自分を傷つけることになるので、誰かのせいにするという技を使う。エゴは傷つくたびにひねくれてしまって、素直でない自分を象徴しているんだよね。心理学では「自分を幸せにしない存在」として悪魔のように扱われる。あえて失敗するように自分を導こうとしたり、あえて傷つくようなことを自分にさせたり、欲求のままに自分を操ろうとしたり、自暴自棄な働きをしたりするのが『エゴ(自我)』。

幼少期からの経験から

最近よく言われる『毒親』育ちの場合は、直接この『罪悪感』を植えつけられる場合がある。

「どうせあんたはできない」という劣等感が植え付けられると「私はダメな子だから幸せになれないし、幸せなってはいけない」という罪悪感を持つようになる。「お母さんの期待にこたえられなかった」と無力感から、罪悪感が生まれる。

両親仲が悪いとか、幼少期に過酷な経験があるという場合も「私は誰からも愛されない」とか「私はだれも助けることができなかった」といった類の『罪悪感』を持つことになる。

子どもはだれもが親を笑顔にしたいと思っている。それができないことがわかると、『罪悪感」を持つ。「お母さんを笑顔にさせてあげられない私」ということも罪悪感につながるし。

ネガティブな『罪悪感』を隠すために、エゴは耳元で叫び続ける。人生が上手くいかないのは「容姿のせいだ」「お金のせいだ」「会社のせいだ」「社会のせいだ」という具合に。

本当は『罪悪感』を癒さないと、根本的な問題解決にはならないけれど、「幸せにならないようにしているのは自分(無意識)だ」ということがわからないから、外に原因を探し続ける。

でも、心の底の『罪悪感」は癒されていなから、どうしても「こんな毒のような私が幸せになっていいわけがない」と思い込み、「幸せじゃない選択」を続けていくことになる。

罪悪感が生まれるのは

罪悪感が生まれる原因の最たるものが『大きすぎる愛」であると言える。

「お母さんを助けたかったのに助けられなかった」
「あんなに愛したのに、上手くかなかった」

こんな愛情が大きければ大きいほど「何もできなかった自分」を責める人生を選ぶことになる。なにもできなかった自分を呪う人生を歩き始める。

だからね、「私の愛が大きすぎるんだな」認めちゃっていいと思う。

私の場合は「夫がお金をくれない」と声高に叫び、「被害者の人生」を選び続けていたけれど、「そうか、結婚生活色々あって、夫の期待にも答えられないし、がんばったけどみんなを幸せ出来なかった自分を責めて、不幸になる一番簡単な方法を選んで、夫にお金を出させないようにしたんだな。しょうがないよね、私の愛が大きすぎたんだから」という所に着地して「人生は自作自演」という言葉が腹落ちしたということがある。

幸せになることにコミットメントした。愛されることを自分に許可をした。
未だにザワザワするけれど、なにかの関門は超えた感は大きくある。

まずは自分が幸せになること。
ザワザワしながらも、自分軸で幸せの選択をし続けること。

これしかない。

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