夫が「チーターが見たい」と少し前から熱心に言っていた。チーターが見たい。私もチーター見たいし、子どもたちもチーターが見たい。
長男によると、チーターは平均70kmの速度で走るらしい。最高速度は120kmなんだとか。そりゃ早いね。
すると夫が「かさまの高速道路のスピードと同じくらいだ」と。そう、その通り。高速道路の迷惑運転者は私です。すみません。なんとか100kmまでは出すし、追い越す時は120kmまではがんばっていけるけど、基本は80km。頭と体がスピードについて行かないんだよね。
そんなことでちょっと思い出したけど、この私のノロノロ運転に関して、助手席に乗った男性で、苦言を呈する人と「自分の感覚を信じた方がいい」と言った人に分かれるなと思った。どんなにかっこいいなとか、ステキだなと思ったとしても、苦言を呈する人は結局「ないな」と思ったな。
あんなに文句ばっかり言っていた義父は意外にも「自分の感覚を信じた方がいい」という方の人だった。「人に流されて、周りに気を使って、それで事故を起こしたら結局は自分の責任になるんだから」と言われて「いつも嫌な事しか言わないけれど、たまにはいいこと言うな」と思った。
どうでもいい話だけれど。
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さて、昨日のこの記事に対してコメントをいただいた。
なるほど…。
トキメキ=幸せということだろう。
「最近、きれいになったね」という褒め言葉
まぁあたり前の話だけれど、人間の顔が突然きれいになるということはそれは『整形』だろうね。
・・・・・・・
いや、違う。そういうことを言っているんじゃない。もし本当に『整形』できれいな顔になったとしても、それが根本理由ではない。
たぶんで、整形できれいになって『自信』みたいなものがついて、顔からその幸せオーラが出ているということなのだろう。
その幸せオーラに対して「最近きれいになったね。恋でもしているの?」という少女漫画に出てきそうなセリフが続くのだろう。
そう、やっぱり『ときめき』が人をきれいにする。
美しいですねと褒められた時にイラっとするのは、顔かたちを褒められたか否かではなく、「あなた幸せそうですね」と言われたことに対して「全然幸せじゃねぇよ」と怒りが湧くのではないか?ということ。
100%幸せ!!というどっか飛んで行っちゃっている能天気人間でないかぎり、『褒められる」ということに関して抵抗があるんじゃないかなぁと思う。
でも、やっぱり褒められたら「私のどの部分が幸せを感じていて、それがにじみ出たのかな?」と客観的に考えてみるのもありかと思う。
いきなり100%幸せ能天気人間を目指すからだ
自分が求める『幸せ』がどこに重点を置いているのかも大切。そこばかりを見てしまうと、なんだか他のプチ幸せが見えなくなっていくということもあるよね。
100%幸せ能天気人間に見える人だって、100%幸せ能天気人間なわけではない。
ひたすら何かを抑圧している人かもしれないし
人に合わせてニコニコしているだけかもしれないし
職業柄そういう態度をしているだけかもしれないし
要は、幸せ満足度は他人との比較では計れない。
それは、まぁあたり前か。
自分の中の幸せ満足度の計り方はどうだろう?
かなりハードルを高くしていないだろうか?ここまで行かないと『幸せ』を感じてはいけない…みたいな修行僧のような感覚。
その感覚で『幸せ』を計ると、そこまで行ったとしても「いや、まだだ!!」ってなっちゃうと思うんだよね~。
上を見たらキリがない。そしてそこには『幸せ』を計るものさしはない気がする。
今の幸せをかみしめる。そしてほんのちょっと上の幸せをつかんでいく。
毎日のときめきを大切にしていく。鏡の向こうの自分が「見苦しい」と思うのであれば、ただ「見苦しい自分」を見たいだけなんだろうね。
さて、今日の私のプチ幸せは…
晴れている。
風が心地よい
朝、ちょっと部屋の片づけができた。
家族でチーターを見に行った。
今日も生きている。
ときめく選択をしよう。お気に入りのマグカップでコーヒーを飲むだけでも心地よいと思えれば、ときめく瞬間なんじゃないかな?