ココロノマルシェ

受診への迷い【ココロノマルシェ】

もじゃもじゃ頭のカウンセラー 山本春野です。どうぞお見知りおきを。

昼ご飯を食べると「病じゃないか…?」と思うくらいの眠気に襲われます。前の晩いくら寝ていても…。でも、昼寝は気持ちがいい。

さて、今日は【ココロノマルシェ】に寄せられたご相談にお答えしたいと思います。

はじめまして。
ある悩みがあり相談させていただきたいです。

私は子どもの頃から勉強がとても苦手なのですが、大人になるほど知的なものへの憧れが強くなり、何度かそのような頭を使う職業の採用試験を受けました。

一度も受かったことはなく、今までの仕事と現在の仕事は接客業や製造業です。
長くやってもお金管理や発注など複雑なことは任せられません。
教育担当などにもなりません。

先日あるblogを読みました。
それは大人になってから軽度知的障害の診断を受けた方が書かれているものでした。
その方のこどものころの様子、社会に出てからの問題などが非常に自分に似ており、とてもショックを受けました。
今でもとても怖いです。

ですがその方は診断を受けて非常に生きるのが楽になったと書かれており、自分も受けたほうがほんとはいいのではないかとずっと迷っています。

家族ではないのですが、いとこや親戚に知的障害があります。
また小学校一年生の時に担任の先生に知的障害児のクラスに連れていかれ、そこの先生の前で朗読をさせられたことがありました。

最初にも書きましたが、わたしはとても知的なものへの憧れが強くあり、自分は勉強はできなかったし、人より物覚えが悪いけど、知能には問題がないはずだとずっと思ってきました。

ですが、それが人生を難しくしてるのではないかとも思うようになってきました。
バカにされることがすごく嫌で、少しでもそういう素振りが見えるとすぐその人が大っ嫌いになります。
だから年をとるほどに友達が居なくなりました。
恋人は15年居ません。
同級生たちはもう中学生くらいの子どもがいます。

このままないものねだりとやりたいことを混同して憧れ続けてどんどん孤独ななっていって仕事もなくなって生きていけるのだろうかと不安です。

どうしていいのか混乱していますし、生きることに疲れてきています。
もう若い頃のように憧れつづけていく気力も無くなってきてしまいました。

わたしはまずどんなことをすればいいのでしょうか。
勇気を出して診断を受けたほうが良いのかずっと考えています。

(きたさんよりご相談)

きたさん、こんにちは。

勉強が苦手で成績もずっとどん底で「行ける高校がない」と言われた山本春野が回答させていただきます。

自分がなにがしかの『○○障害』があるんじゃないか?という怖れが私自身はあります。そして、私の次男も「識字障害の疑い」があり、今度LD検査を受けることになっています。

私自身のことは、障害であってもなくても今が幸せだからそれでいいと思えるようになりました。でも、いざ子どもが…と思った時にやっぱりえも言われぬ恐怖を感じます。

きたさんも、なにがしかの障害が自分にあると診断されることで『救われる』ことがあるのだろうと推測する一方で、診断されることで「もう自分じゃどうしようもない」という極地に追い込まれるのではないかという怖れがあるんだと思いました。

そうなんですよねぇ…。受けるかどうか迷うのはあたり前だと思います。その先が見えないのですから。

きたさんのご相談文を読んで、かつての自分を思い出しました。仕事でも人間関係でもいつでも「バカがばれないように」していていました(笑) だから誰かが冗談でも「お前バカだなぁ」みたいなことを言われると、喰ってかかったり、その人とはさっさと人間関係を切ったりしていました。バカにされることにものすごく反応してしまっていて、相手がそう思っていなかったとしても「バカにされている…!」って思い込んでいました。

この辛い状況を脱するには、本当に「バカじゃない自分」になるしかないと思い込んでいました。で、大人になってから英会話スクールに通ったんです。なんか英語ができるって頭よさそうだと思いません?最初のレベル決めの時のテストで「be動詞」ってなんだろう?と思うくらい英語はできませんでした。

なのに、しゃべる英語はどんどん上達し、ついにはアメリカ留学するまでに至りました。

ええっ?頭いいじゃん!バカじゃないじゃん!って思いましたよね?そうなんです。私バカじゃなかったんです。

そこで初めて気がついたんです。日本の学習方法や、その人の能力を決める判断材料が私の能力を見極めることができないものだったんだということに。

未だに小4の長男の解いている算数とかはさっぱりわかんないです(笑)。

次男の識字障害についても同じことが言えるんですよね。次男はひらがなの読み書きができないだけで、理解には問題がないんです。だけど、ひらがなができないから算数の問題もわからない。だから問題が解けない。でもテストってそういうもんでしょ?答えが書けなきゃ0点です。ただ、問題を読んであげれば100点なんです。

因みに私は帰国してもなお、私の「バカコンプレックス」は全然解消されていませんでした。念願の大卒になったのに。問題は学歴じゃなかったんですよね。

でもね、今は「バカでもいいじゃない。それも私」と受け入れて楽になりました。

ここまで私物語を読んでいただいてありがとうございます。ウザくてすみません。
(これも長年の私はばかじゃない!!という承認欲求の表れかも)。

なにが言いたいかというと、自分の能力や才能の視点をちょっと変えてみるのはどうかな?という提案です。

障害かどうかはあまり問題じゃないと思うんですよね。

問題は別にある気がします。

「『どんな自分でもOK』を出せないこと」なんじゃないかなぁ~と。

識字障害のある次男が将来「小説家になりたい」と言ったら、きっと苦労すると思います。それに強く憧れるのであればやってもいいと思います。それはきっとライフワークになるのかもしれません。ただただ『物語を書くことが面白いし楽しいしワクワクする』ということであれば。

でも、それを職業にしていくのは難しいかもしれません。

(そうでもないですね…書くことができないだけなんだから、それは誰かにやってもらえばいいですから、小説家にもなれますねぇ…考えてみれば。やり方見方を変えればできるかも)

一般的に識字障害がある人は「突出した視覚・空間関連の才能」を持っていると言われています。だからこういう『得意』を仕事にするということもできるんですよね。

前振りが長すぎますが…私はきたさんには、「本当は何がしたいのか」「私はどうしたいのか?」をもう一度掘り下げていってみてはどうでしょうか?と提案を差し上げたいです。

>>長くやってもお金管理や発注など複雑なことは任せられません。
>>教育担当などにもなりません。

ということですが、きたさん自身はこういったこともやりたいし、できると思っているのに、任せられないってことですよね?ってことは「苦手」ではない…?

ちょっとここらへんが分からないのですが…

まずは、きたさんは「やりたいこと」が「苦手なこと」を思っていらっしゃるということを前提として…それが「本当なのか?」ということを整理したらいかがかな?と思います。

自分の価値・才能を30個、できたら100個書き出してみてください。

自分では思いつかなかったら、誰かに聞いてみるといいと思います。

それでも見つからなかったら、きたさんの身近な人の価値・才能を書き出してみてください(それはきたさんの価値・才能でもあります)

きっと忘れていた、見えていなかったらきたさんの才能が沢山出てくると思います。

「問題の影に才能あり」といいます。
ご自身が「ない」と思えば「ない」のです。だれかが「そこはあなたの才能なんだよ」といくら言っても。でも、こうやって書き出してみると「ない」と思っていたものが「ある」にかわってくると思います。こうやって「問題だ」と思っていたことから、才能を見つけ出すことができますよ。

次に…

好きなこと/好きじゃないこと(嫌いなこと)
得意なこと/苦手なこと

を書き出してみてください。

好きで得意なことを仕事にできたらいいですけど、好きじゃないけど得意なことを仕事にしている場合もありますよね。これもありだと思うんです。それも才能ですから。

ただ、好きじゃないし得意じゃないことは、なしにしたほうかいいです。

そして、仕事に対しての適性は、好きの度合い×得意の度合いという形がいいんでしょうね。

でも、

「好きだけど苦手なこと」はベストではないけれど、「好きじゃないけど得意なこと」と同じくらいの適性があると思います。

いずれにしても、重要なのは「ワクワク度」だと思います。

「頭を使うことが好き」であったとしても、全員が東京大学の教授になれるわけではありません。だから「何が仕事か」が重要なのではなくて、その「好きなこと」で、だれかにその「価値」を与えられるかだと思います。

きたさんも「頭を使う仕事」に憧れてそれが好きなのだとすれば、どこかに所属しなくても、それはできるのではないかな?と思うのです。それを充分な収入が得られる職業になるかどうかは別として、「誰かに自分の知識を与える」ことはできるのではないかと。

そもそも「頭を使う仕事」がどういうものなのかが気になるところですが…。

本音が分からなくなってしまっているかもしれませんが、「頭を使う仕事」が本当に好きなことでやりたいことなのか?をちょっと落ち着いて考えてみるのもいいと思います。

苦手を克服したいと思う気持ちはとても大切だと思います。だけど、誰かに認められたいとか、苦手を克服しなければならないとか、こうならないと自分はダメな人間だといった、他人軸や「怖れ」からの選択なのかもしれません。

検査を受けることは、私個人的にはどちらでもいいと思います。ただそれが「やっぱり私はダメなんだ」という証拠を探すためのものだったら、幸せの選択じゃない気がします。

「どんな診断が下っても、私はこのままでOK」と思えるのであればいいと思います。また、なにかの「執着」を手放す、いいきっかけになることもあると思います。

自分が心地よいと思うこと、楽になれる方へいく選択をし続けられたらいいですよね。

知への探求心。わからないことを知ることの楽しさ。できないことができるようになる達成感。心地よいです。

ものは取りよう捉えよう。

きたさんが、「私は私のままでいい」思えるようにお祈りしています。

参考になれば幸いです。

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