先日こんな記事を書いた。
そして感想を寄せて下さった、LINE登録者様がいらっしゃった。いつもありがとうございます!
こんばんは
今日のブログにありました『エゴの声』
エゴとは心理学的には自我などと言われますが一般的に、特に日本では否定的な見方、使われ方をすることが多いように感じます。
よく『親のエゴ』などという使われ方をしますが、基本的には同じ意味合いと捉えていいのでしょうか?
心理学的に使われるエゴは、自身に向けた声、というイメージがとても強いです。
よく言われる”子供のことを思って”言う『あなたのためを思って』というのもエゴの声なのですよね?
あなたのため、と言いながらそれが子供のためとは限らない、子供の選択肢を狭めているわけですから…
ごめんなさい、文章がうまくまとまりません。
エゴについて、考え始めるとしっくりした答えがないというか頭がこんがらがってしまいます笑
よくわからないながらもどうしてももっと深く追求したくてご連絡差し上げた次第です…
ありがとうございます。私ももう少し深堀してみたいと思います。
私も根本裕幸氏に弟子入りして、「あれ、『エゴ』の意味が思ってたんと違う」と思ったことを思い出した。
むかーーーーし、なんか香水のCMかなんかで、美女たちが「エゴイーーーースト」と何回も叫ぶというCMがあったた。あれ、エゴイストっていう香水だったのかな?(今調べたらシャネルの香水だった)
エゴイストと心理学でいうエゴは違う気がする。『自分の利益だけ追い求める人』って意味だからね。自分の利益だけを追い求める人って、たぶん「何かに怖がっていて、そうすることでした自分を保っていられない」という状態なんじゃないかと。優越感コンプレックスというか。
そもそも、『エゴ』の辞書的意味は…
自我、自尊心、利己主義、利己的主義な人、うぬぼれを表す言葉
という意味。心理学で使う意味は『自我』の部分だけなんだよね。だから、今まで聞いてきたいわゆる「わがままな人』的な意味ではあまり使われない。
言葉の発達と共にこういうことになったのだとは思う。
だから、心理学的に使う「エゴ」は一般的に使われてる「利己主義」という意味合いはないと思っていいのかな。だから私も最初に「エゴ」の意味が違うと思ったのはここかなと思う。
エゴ(自我)は自分の中の話。
エゴ(利己主義)は対人で起きる自分の主張。
親のエゴは利己主義なのか自我なのか
何事も白か黒かというパンダ理論では収まらない。そうやっているとかならず行き詰まる。ほどほどにグレーゾーンを持っていた方がいいとは思う。
だから、「これは『親のエゴ』でこれは『親の愛』です」ときっかりくっきり分けることはむずかしいかな~と思う。
子を思う親心…それがどんな風に現れるのかは様々だし、それを子どもがどうとるのかも様々。捉え方まで親がコントロールはできない。
例えば、こんな話がある。
娘が高校受験をしたくないと言い出した。もう中卒でいいと。そもそも娘の成績は上の方で、受験をすれば高校には入れる。ただ、娘の『行きたい高校』が母親の『行って欲しい高校』と違いがあり、大ケンカになった末の反抗期ならではの決断だった。「そんなに好きにさせてもらえないならもう高校いかない!!」
まぁ、可愛いと言っちゃ可愛いかもしれないが、15歳の少女にとっては「行きたい高校に行けない」は大きな問題だから、大きな悩みだっただろう。でも母親も折れない。「そんな高校に行ったって…」と言う。娘も折れない。「この人布団でぐるぐる巻きにして押し入れに閉じ込めたい」と思った。もう平行線。
そこで、じゃじゃーーーんと父親登場。
父親は、娘の味方になるわけでもなく、母親の味方になるわけでもなく、こう言った。
「高校には行ってくれ。これはオレの見栄だ。エゴだ。娘のためとは言いがたい。でもオレは娘に高校に行って欲しい」
娘は高校に行った。しかもいわゆる偏差値の高い高校に。
因みに私の話ではない。
この話をすると人によっていろんな見方があって面白い。
「そんなの結局、親の見栄のために生きてくれって言われているようなものだ」
とか
「そうやって、親が弱いところを見せてくれるのは子どもにとっていいことだ」
とか。
自分が見たい世界を見ている。結局はそういうことなので、どれが正解と言うことはない。
親のエゴか親の愛か
進路なんて最たるもので、どうしても親のご意見が大きく反映する。高校受験もそうだけれど、大学受験だった同じことだ。下手したら就職も。
100%子どもの希望通りにするという親はまぁいるだろうけれど、私はそういう人たちを尊敬する。
ここで、先に登場した母親と父親の発言が『エゴ』なのか『愛』なのかを考えてみたい。
なんども言うけれど、何事も白黒ではなく『グレーゾーン』があることを忘れないで欲しい。
母親はエゴ70愛30
あくまで私の主観。
母親は高学歴で、結構自尊心も高い。そして多分自分の進んできた道に自信があり、今幸せなのだと思う。
そうなると、「今が幸せ」なんだから、娘にも幸せになって欲しいがゆえに「自分がたどった道が幸せになる道」という概念をどうしても子どもに投影させる。
だから、娘が選ぶ進路が自分の学歴に沿ったものでないと「怖れ」を感じる。それじゃぁ幸せになれないかもしれないという、怖れ。
それと同時に『世間体』もあるだろう。娘の成績はよく、周りからも「きっといい高校に行くのであろう」と思われている。にもかかわらず「そうでもない高校」に行った場合、なんと言われるか、そして多分「私もどう思われるか」ということも潜在意識にあったであろう。
要は、幸せになって欲しいという愛はあるけれど、それに到達するまでの考え方は怖れからの行動であって、エゴ(自我)に偏っているということになる。
だから、敏感な娘は反抗する。それはエゴ(利己主義)ではないのか?と。
※ここで反抗できるってことはそれまでに親子関係がよかったからだとは思う。完全に支配されていたらここで反抗すらしないと思う。
父親はエゴ20愛80
ちょっとむずかしいところだけれども、父親はコントロールをしていないところに注目。
高校には行ってくれと言ってはいるが、あくまで「お願い」。そしてその理由も「あなたのためだから」ではない。押しつけていない。
選択肢があるように見せかけて、選択肢がないように外堀を埋めていない。
例えば「中卒だと就職できない」とか「みんなに笑われるぞ」とか「他の子を見てみろ」とかそういう比較競争の怖れを持ち出してはいない。
恐怖を煽って、選択肢を迫ったりはしていない。
だからこそ「オレの見栄のために高校へ行ってくれ」が効くのではないかと。それがエゴ(利己主義)であったとしても。
この問題の根本「高校へ行くか行かないか」だけを着目して、それを自分がなぜ娘に高校に行って欲しいのかを考え「自分の都合」つまり『エゴ(自我)」の声に耳を傾けて、『自分の問題の本質』を見たのではないかなと思う。
自己防衛装置、エゴは悪いものではない。(父親は中学もろくに卒業していないかった。その後大検で大学に行っている)
エゴの声を聞いて、感情で納得する。感情とエゴを大切にする。なんでもバランスではないかと。
自分のエゴをさらすからこそ、愛が増えるのではないかなと思う。特に対人関係では。
まとまらないからまとめ
結局私もまとまらない(笑)
よくいう話だけれど…
誰だって強くなりたいと願う。強くなるためには弱さを見せてはいけないし、弱さを隠さないとバカにされる、と思う。
だけど、本当の強さとは「弱さを受け入れる」ということ。
エゴは強いと見せかけている自分の弱い部分なんだろうね。
『辛かった今まで』のどこかで捨ててしまった『弱さ』を拾ってリュックに詰めて亡霊のように後ろからついてくるのがエゴ。離れてくれないのであれば、諦めて一緒に歩いて行くしかないのかもね。
まとまらなかったので、追い質問を受け付けます(笑)
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