この言葉に異常に腹が立ってしかたがなかった頃のことを書きたいと思う。
「神は越えられない試練は与えない」
これね、聖書に出て来る言葉なんだけど、結構一般的に使われているでしょ?なんでだろうなぁと調べたら、昔流行ったドラマ『仁―JIN』で使われたらしい。なるほどね。
この言葉に励まされる人は多いと思う。がんばろうって気にもなるし、なんとかなる!とも思えるいい言葉だとは思う。
だけど、言われるシチュエーションによっては「はぁ????じゃぁ私にどうしろっていうのよ!!」って頭にくることもあると思うんだよね。
この言葉が持つ意味をとらえ方だったり、この言葉が腑に落ちない瞬間だっただけってことだと思う。
この言葉が持つ本当の意味は「手放していい」ってことなんだよ~。
舅が脳梗塞で倒れた時
結婚して6か月経ったとき、同居していた舅が脳梗塞で倒れた。
「よくて寝たきり」と言われたのを覚えている。なんだかもう色々訳が分からないことの中の一つに『お金の問題」があった。
※ ほんとにお金の話が多くて困っちゃう。
倒れたのが、12/24で、病院からの請求書が年明けに届いた。その頃はまだ舅は集中治療室にいた。請求書の期間は12/24~12/31だった。そして請求金額が…
100万円近かった!!!!!!
何これ????とパニックに陥った。1週間でこれだったら月300万超えるの?と大パニック!!(あとで色々わかるんだけど、本当に国民皆保険万歳!って声に出して言った)
そして、舅の携帯になんどもかかってくる謎の人からの着信。事情を話しても要件を言わない。そして、差出人のない封書が届く…。
経験のある方ならわかるとは思うけど…マチキン的なところからの請求です(泣)
普通のカードローンもありまして…。
そして、保険に入っていないか調べていたら、押し入れから書類がいっぱい入ったボストンバックが見つかり、中をのぞいたら、税金の督促状がパンパンに入っていた。
大パニック!!役所に行ったら、健康保険も制限付きになっていて、税金の滞納も結構な金額に…。
夫の借金なんてかわいいもんだわさと思うくらい。
とにかくウン百万円の借金なり、滞納金なりがわかった。さすがの私も貯金から払えないくらい。マチキンは払っちゃった(←絶対やっちゃいけないヤツ)
それに加え、いつ終わるかわからない介護の始まり…。
お金の話はさすがに誰にも言えなかったから、周りの人は「これから始まる介護」について色々アドバイスしてくれた。それはもちろんありがたかったし、励ましにもなった。
ありがたいけど、おでこに怒マークが出る
私は教会の子なので、教会に行く。すると皆さん温かい言葉をかけてくれる。
みんな祈ってくれている…というのは心温まることだけれども…
「神さまは越えられない試練はお与えにはならないのよ」と何度も、何度も、いろんな人に言われるわけですよ…。
最初はそうだな…がんばろう…と思うんだけれど、段々イライラしてきて、そのうち顔がハニワのようになる。
この言葉が「頑張り続けなさい。越えられるまで」と鬼軍曹の言葉に変換されていく…。私はこの試練に立ち向かわなければならないわけ?と目の前がくらーーーーくなっていくわけ。
逃げられないのか…と。ひとりでがんばらなきゃいけないのか…と。宝くじでもあたらない限り、お金なんて降ってわかないわけだから、自分で稼いでいかなきゃいけないのか…と。
重くのしかかるわけですよ。
それでも、感情を麻痺させて、目の前にある課題をひとつひとつクリアにしていった。そんな私は偉かった。それでもこのパワーを引き出せるのは、「怒り」しかなかったと今になって思う。
とにかく、毎日「ふざけんなよ!!」といろんなことに毒づいていた。もちろん時々漏れていたとは思う。
※愚痴をきいてくれたみんな、ありがとう!!
もちろん体に変調はあった。幻聴はいつも聞こえていたし、皮膚がボロボロになってずっと病院にもかかっていた。今思えばストレス。
よく燃え尽きなかったなぁ。
「神は、乗り越えられる試練しか与えない」の解釈が違った
なんでもそうだけれども、解釈によって言葉なんていくらでも変えられる。
この聖書の言葉も、言葉尻で捉えたら、「とにかく越えられるんだからなんとかなる」みたいに取りたいと思えばそうとれる。
だけれど、この言葉の『試練』の部分は日本語では『試練』と訳されているけれども、英語は「temptation」と訳されている。元のギリシア語ではどういう意味なのかは分からないけれど、英語では「試み、誘惑」と訳されている。
要は、神様のテストとか誘惑とか言う意味なんだよね。
試練っていうと「辛い戦い」みたいな気がするけれど、本当はそうではない(というか、私はそう解釈したい)。
クリスチャン的な言い方をすれば、「「罪」は様々な方法を使って私たちを誘惑してくるけれど、神様は必ずその誘惑から逃れる道を用意してくださっている」ということになる。
そうなると、「試練に立ち向かえ!!」ではなくて、「神様が用意してくださっているその誘惑から逃げる術を探せ」ということになる。
誘惑ってなんだ?
教会の子からちょっと離れて心理カウンセラー目線でいうと、この『誘惑』は『エゴの声』ということが言えるなと思う。
自分らしさや「元の自分』というセンターから、徐々に離れてしまっている私たちが、元の自分に戻ろうとするときにそれを阻害しようとする「エゴの声」通称『悪魔の声」。
そっちの方が悪魔の声に従った方が「楽」な気がする。そう思い込まされている。本当は、本来の自分の戻った方が『楽」だけど、そうはさせないヤツらの声。
その声ってね「誰かに頼るなんて」とか「そんなことするのは普通じゃない」とか「それしたら愛されないってわかっているよね?」みたいな声だったりするんだけど。
じゃぁ私の「舅のお金問題」は一体なにが「テスト/誘惑」だったのか?なんでこれを私は「問題」としたのか?ってことだよね。
全ての問題は自作自演。そう「私はお金に困らなければならない」って潜在意識に埋め込まれているから、これが『問題」となっているわけ。
「え~しらなーい。私には関係ないし、私の借金じゃないし、夫かもしくはおばさんおじさんにまかせちゃえばいいよね?」ってあっけらかんとしていれば、まったく「問題」にはならない。
法律上も舅の借金を私が背負う必要はない。相続もしない(役所に人にはっきりいわれたのをよく覚えている。「お嫁さんが支払うものじゃないですよ。ご希望なら無料弁護士相談を紹介します」と)。
それでも、私はこれを「私の問題」にしたかった何かがあったんだよね。(要カウンセリング事案)
解決方法はなにか?
もし、神様の『試み、誘惑』にあたってしまったら、まずは「よし!この試練越えてやる!!」立ち向かうのではなく、「どうすることもできません。助けてください」と、言っちゃえばいいと思う。
「助けて下さい」その言葉を言うだけで、心が楽になることはある。
「助けて下さい」と言うだけで、周りがこぞって助けてくれることがある。
立ち向かうことだけが解決方法じゃない。
選択肢は色々あっていいではないか。
立ち向かう
逃げる
保留する
なあなあにする。
とかね。
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