美容院に行ってきた。外国人の小さな女の子みたいなカーリーヘアにしたくて。
いつも行く美容院の担当さんは、私の娘ですっていってもいい年齢の方なんだけれど、やけに話が合っていつも腹がよじれるくらい笑う。
で、今日も担当さんは「予約入った時、はっ?パーマ??どうした?って思ったんですよ~」と。そう、私ショートヘアなんです。小池百合子さんくらいな感じ。
で、一生懸命説明した。
と、パー子を心配をしながらパーマをあててもらいました。
終盤に、店長さんがやってきて「アニーみたいな感じってことですよね」と。
それそれそれ!!!と担当さんと腹がよじれるくらい笑った。
ブロッコリーでもカリフラワーでもカミナリ様でもパー子でもいいんだけど、『アニーみたいにしてください」が一番可愛らしいし妥当だった。それが出ないあたりがこの担当さんの好きなところなんだよね。
短いのでまだアニーにはなれていなけど、そのうちアニーになって♪トゥモロー~って歌う動画を上げることにする。
考えていることを言葉にするのは難しいし、みんな見えているものが同じとは限らない
イメージを説明するのは難しい。カリフラワーを想像してそれがどういう髪型なのかは、それを想像した人にしかわからないし、そのイメージが相手と共有できているのかもわからない。
例えば、結婚するときに相手に「子どもは好き?」と訊いたときに「好き」と言ったはずなのに、蓋を開けてみたら全然子育てに参加しないし、興味があるようにも見えない。
だから「子ども好きって言ったよね??」と言った側は腹をたてて「嘘をついた」と「裏切った」「豹変した」と思う。そして責める。
言った側はもしかしたら嘘だったのかもしれないし、結婚したいからそういうことを言ったのかもしれないけれど、そもそも「子どもという形状が好き」ということであって、「子どもの面倒を見るのが好き」とか「子どもと遊ぶのが好き」ということでなかったかもしれない。
そんなことを言い始めたらキリがないけれど、自分のイメージや概念が相手のそれを合致していることの方が少ないのではないだろうか?と思う。
見えているものが本当なのかすら違うのかも
因みに私はかなりの乱視。本気で70円が700円に見えるし、針は完全に2本に見える。私の見えているものが本物だとしたらその商品は700円だし、針は2本あるものとなる。
でも、針を通すときはどっちか1本が本物だし、そもそもその針の穴すら見えている場所にあるかどうかなんてわからない。
もっと言えば、これは私が子どもの頃から信じて疑わないのだけれど、人それぞれで見ている色が違うのではないかと思っている。
私が『赤』だと思っている『赤』はあなたが『青』と思って見ている『青』を同色なのではないか?ということ。そしてそれを違うとも合っているとも説明できる術はないんじゃないかなと言うこと。
ああ~我ながら意味が分からないこと言っていると思うけれど、要は一番最初に『赤』を見せられて「これは赤だよ」と教えられれば、それは赤であり、疑うことすらしなくなるだろうと思うのである。
こんなことばっかり言っている小学生はちょっとヤバいかもしれないけど、いや、むしろ子どもらしくていいのかもしれない。
小学校の頃はこれを誰に説明してもわかってくれる友だちはいなかったし、大人になったら科学的、生物学的視点できちんと説明してくれるが人が現れたから、今はそんなことはないことは分かっているけれど…。
でもさ、昨日針の穴に糸がなかなか通らなくて本気で「私の見ている穴は本当の穴ではない」と思ったんだよね。
だから見えているものを信じるとか、見えないものは信じないっていうことすらもうよくわかんないよねって話
そんなことを言い出したらキリがないから、結局は自分の感じること、気持ちいいことだけしていればいいんじゃない?ってところに落ち着いたわけ。
誰がどう見ているとか、私が見ている世界が正しいとか、こう見られているとか、ああ見ているとか…よくわからない。
よくわからないことを考えすぎると、頭がカミナリ様みたいになっちゃうからね。
そこそこでいいんじゃない?って思った。
あっカミナリ様みたいな頭になりたいんだから、考えすぎた方がいいかな?