パートナーがずるいとか、感謝してくれないとか、オレ様だとか、暴君だとか、モラ夫だとかいろいろある。
どうしてもパートナーに期待をしたり、取引をしたり、がんばり屋さんだと犠牲を払ってしまったりする。そして度が超えると大問題に発展していってしまう。それは『期待』『取引』『犠牲』をとっぱらって、自分が幸せになることを目指すとおのずと解決していくものだ。
こっちは我慢しているのに、相手のためを思って行動しているのに、返ってくるのは罵声だったり、無視だったりする。結局損をするのは自分ばかり…と思うことがある。そしてもうどうしていいかわからない状態にまで追いつめられる。打つ手なし!みたいな。
結局、夫やパートナーにどうにかしてもらおうと思ってもどうにもならない。かと言ってこちらとしてはできることはすべてやった。向こうの言い分も守ったし、期待に沿えるようになんでもやって来た。じゃぁどうする?そう相手のことは相手に任せて、自分自身を整えていくことから始めてみては?
どうしようもない夫との関係をどうにかしたいと思うのであれば、まずは自分を悦ばせることから始めよう。
あれは取引だったのか?
新婚当初、お弁当を作っていた。どういう思いで作っていたのかはよく覚えていないけれど、今思えば『わたし自身の喜びのために』作っていたわけではないと思う。
お金がもったいないから
いい嫁だと思われたいから
夫をコントロールしたいから
という思いが強かったような気がする。「私がしたいからする」という思いだけではなかった。それは明らか。
なぜなら夫から「美味しかったよ」とか「いつもありがとう」とか「助かったよ」という類の言葉をもらったことは一度もなかったのが不満だった。
お弁当に関するコメントは全てネガティブだった。「腐りかけてた」「マヨネーズが使いにくかった」「保冷剤とか入れたりしないの?」「量が多い」「量が少ない」
そんなコメントにいつもカチンと来ていた。なぜカチンとくるかと言えば…
『取引』をし、『犠牲」を払っているからに他ならないよね。夫が喜んでくれる顔を見て私が喜びを得られるのであれば、そんなコメントもより大きい喜びのための『愛のアドバイス』ととってもいいかも。
(と書いていても「いや、それはできない」と思っている)
「取引」は「お弁当を作ってあげたんだから、感謝すべし」という感じ。
「犠牲」は「お弁当作るのは面倒だけど、しないとダメ嫁と思われそうだから作る」という感じ。
そしてある日、夫に「お弁当が腐っているからもういらない」と言われて…
はい、恨みポイント増加~となった。
喜んでほしいというよりも
たぶんね、喜んでほしいというよりも、いい嫁と思ってほしい。認めてほしい。特別だと思ってほしい。愛されている感じが欲しい。という思いの方が上回っていたんだと思う。
だから「腐っているからいらない」と言われた時、自分自身を否定されたように思ったんだろうな。
いわゆる『他人軸』だからこういう思いが出てくる。相手の判断や評価でしか自分の評価がえられない。
「私が作りたいからお弁当を作る。それを相手がどう捉えようとも関係がない」というところまで行くために手に入れるものは…
『自分軸』と『自己肯定感』ってことになるんだよね。
仕事を辞めてからリクエストされた
私が仕事を辞めてから、子どものお弁当を作るついでに夫に「お弁当いる?」となんの気なしに訊いてみた。
すると「いる」と言って、次の日、自分専用のお弁当箱を買ってきた。(驚)
あれ、お弁当欲しかったのかな?一時の気の迷いかな…?と思いつつ、まぁ適当に子どものためのお弁当のついでに作っていた。
そして子どもの給食が始まった今、まだ「お弁当いる?」と訊くと「いる」という。恨み節にならないように「お弁当腐ってない?」と訊いてみたら…「???腐ってないけど?」と言う。
私の記憶がおかしくなっているのか?なんなんだろう?あんなに敵意を持って「弁当が腐っている!!」と言っていたのはなんだったんだろう?まぼろし??
最近こういうことが増えてきた。あんなこと言われた。こんなことされた。という記憶が…まぼろし??と思う経験が…。
勇気を出して「こんなこと言ったよね?」と訊いてみると大抵「えっ?そんなこと言った?へぇひどいねオレ」という返事が返ってくる。
何が私たちに起きているんだろう?
パートナーは鏡
『あなたが変われば相手も変わる』という言葉が大嫌い。今でも「いや、相手は変わりませんよ」と言う。
「あなた自身をあなたが受容すれば、見ている世界の視点が変わりますよ」というのは心底思っている。
で、今生きている世界の見方の視点が変わると、過去を見る視点も変わるんだと思う。
結婚当初、行動指針は『犠牲』と『取引』で、罪悪感と無価値観の塊だった私が見ていた世界は、きっと夫が見ていた世界なんだろう。
押しつけられて受け取れず、与えたくても受け取ってもらえず、そんな自分が情けなく、罪悪感と無価値観を募らせて「どうせ私なんか」と毎日つぶやき、そのうち補償行為にでて、私の場合はそんな自分に悦に入って…。ってとこかな。
夫がどうだったのかはわからないけれど…。
そんな時代もあったよね~と口ずさみながら、そんな過去の自分を愛おしく思う。だったあんなにがんばっていたんだもん!あれ以上のことはできなかったし、そうするしかなかったし、今タイムマシンがあったとしてもきっと同じことをする。
だからそれでいいのだ。
今の行動指針は「私が喜ぶことをする」。お弁当に関しては…そこは妄想の力を借りているけれど。まぁそれもヨシかな!!
そうそう、いかに私が「誰かのために」生活をしていたのかがわかるのが、食事なんだよね。今、昼間なにも食べないのはたぶんそういうことなんだと思う。誰かのために何かをつくることしかできないのかも。

でも、まぁそれでも…イイネ!