聖書に『地の塩、世の光』という言葉がある。これは隠喩で、塩は『愛』を意味している。
塩って他に代用品がない。そしてとても重宝されるし、塩は料理の美味しさを左右する。とっても重要。
もともと、食材を腐らせないために使われるのが塩だったらしい。『防腐』の役割。
料理上手=塩加減が上手
いい塩梅という言葉もあるくらいだから。
でも、いくら塩が料理を美味しくするからって入れすぎるとどうなるか?
からくて食べられたものではない。
塩が入っていない料理はどうしても物足りない。味がしっくりこない。それは料理をしたことなくてもわかると思う。
塩は入っていることがわからないくらいの量で、でもしっかり素材の良さを生かすちょうどいい量がいいんだよね。
で、塩=愛と考えてみる。
毒親とかモラハラとかの始まり
毒親とか、モラハラ夫とかって、やっている人たちはたぶんそのつもりがない。
正義感とか、「その子のためを思って」とか、「オレがやってやらなければ」という思いから色々言ったり、やったりする。
それを『愛』と呼ぶのにはちょっと躊躇するけれど、本人たちはたぶんそういうことなんだと思う。
「ためを思って」の部分は愛があるんじゃないかな?でも、その愛が強すぎて、「こうしないと絶対ダメなんだ」という自分の思いが強すぎて、相手がどう思うかはあまり考えられなくて、とにかく大量の塩を浴びせることが『愛』の表現だと脳がバグを起こして…
こんなに『愛』を注いでやっているのに、その愛に応えない相手が悪いのだと思い込んでいるということもある。
そして『罪悪感』やら「無価値感」を募らせていくんだろうね。
塩の盛りすぎ。愛の押し売り。
辛すぎる料理を食べるのは苦痛でしかないと思うよ。のども渇くしね。
入っていることに気がつかない
美味しいものってたいてい「塩分」が入っているということをあまり意識させない。だけど美味しい。それが塩。
愛も入っていることに気がつかないくらいがちょうどいいのかもしれない。
料理の素材を褒めることはよくあっても「塩分の入り方が絶妙ですね」という褒め言葉はグルメリポートでもあまり聞かない。でも、絶対塩は料理に重要。っていうかあたりまえかも。
それが塩の特性でもあると思う。
さりげなく入っている。塩が入っているのがよく分かったら、それは恩着せがましくなっているということだ。
やってやったという言葉にうんざりする
義父を介護していた頃、義父はよく「○○してやったから」という言葉を言っていた。
この言葉が私をイラつかせた。
してもらったことを素直に感謝できない自分もあまり好きではなかった。でもやっぱり恩着せがましいと思っていた。
でもね、今思えば義父は義父なりに「役に立ちたい」と思っていたのかもしれない。それをさりげなくすることはできなかったんだろうな。愛をはっきり示して、はっきりを感謝をされえないと嫌だったのだろう。
それを広い心で受け取ることは、あの頃の私にはできなかった。塩盛りすぎだよと思っていた。そんなことぐらいで感謝の強要をしないでよと思っていた。
心狭いな(笑)
じゃ、私はどうだろう?
義父に向かって「感謝しろ」と思っていたかどうかは忘れてしまったけれど、夫には思っていた。
私はこれだけやっている。じゃぁあなたは私になにをしてくれるの?
と思っていた。
感謝されたいと思っていた。
感謝されたいと思っていることは、たぶん塩を盛りすぎていたのだろう。
そりゃ塩辛いよね。食べたくないよね。受け取り拒否するよね。
塩はさりげなく
愛もさりげなく
ちょうどいい塩梅を習得するのはちょっと時間かかりそうだな。
鏡の法則…まずはいい塩梅で自分を愛することからなんだろうね。
余談だけれど、私の料理は味がないらしい。要はシオタランなんだろうね。夫が私の作った料理を長い間食べなかったのは、シオタラン=アイタランだったのかもね(笑)