昨日は根本裕幸師匠のヒーリングセッションに参加してきた。自分がフォーカスパーソンになったわけでもないし、フォーカスパーソンになった方のシェアしてくれた内容が自分と似通っているわけでもないのに、なぜかちょっと心に引っかかっていたものが取れた感がある。
不思議なもんだね。
さて、今日はLNEに寄せられたお悩みにお答えしたいと思います。
嫉妬について・・・・
また、自分はなかなか人に言い返せなくて、あとで「ああ言えば良かった」と悔しく思います。しかし、思いきって言ったときはいいすぎちゃったり、またはソフトすぎて伝わらなかったり、難しいです。
うちの子供たちも言い返せず、自分の内にためてしまうタイプで心配しています。
また、自己肯定感が低いです。私自身。
(子供たちも、特に長男は、不登校だったりいじめられたり)
春野さんは、自己肯定感しっかりしていそうで、いつもうらやましく思っています。
(ふみまるさんより)
ふみまるさん、ご相談ありがとうございます。
『嫉妬について』のお話はまた後日させてください。
短い相談文ながら、結構いろいろな要素がギュウっとしていると思いました。
うまいこと言い返せたらいいですよね。いいことでも不快なことでも、その場ですぐに最適な言葉が見つかるときっと人間関係も上手くいくような気がしますよね。
私もまったく同じです。あとで考えてみたら「あれ、もしかして嫌味だった?」とか「くそーーーっ一言言ってやればよかった(怒)」となることもしばしばです。
まぁ色々な考え方があるとは思いますが、ありがたいことに
>>春野さんは、自己肯定感しっかりしていそうで、いつもうらやましく思っています。
と言っていただけているのがとても嬉しいので、私の思考と感情の動きがどうなっているのかを紹介したいと思います。(なんかまたお決まりの自己承認欲求が発動している気がするけど…)
全てにおいて「なるようにしかならない」という思いをベースに持っています。そして「その時に起こったこと、見えたことはいつも正しい」とも思っています。ただ思おうとしているだけです。実際にそれを毎回仙人のように「そういうものじゃ…」と達観しているわけでもありませんが。そうありたいと願っているという言葉の方がしっくりくるかもしれません。
例えば、軽めな例でいうと…
母親ほどの年令の方がこう言いました。
「まぁ~きれいな手ね~、全然家事とやらないんじゃない?」
と言われたとします。そこで私は褒められたと思いました。だから
「ありがとうございます」と言いました。
でも。その横にいた、そのご婦人の娘さんが言いました。
「お母さん、やめなよそういうこと言うの!」と。
そこで私は初めて『イヤミ』を言われたことに気がつきました。
っていうか、これ嫌味ですかね?未だに解りません。
ただ、そこにご婦人が『言った言葉』という普遍の事実があります。この言葉は変わりません。
この言葉からの私の真実は「褒め言葉」です。
そしてその娘さんの真実は「嫌味を言うお母さん」です。
どっちが真実でしょうか?どっちも真実なんです。
なにが言いたいかっていうと、事象からどうその人が受け取るか、どの世界を見るかはひとりひとりの頭と心の中にしかないんですよね。
もし「女だったら辛い家事をやらなきゃいけない。あかぎれがひどくなるくらいに!」と潜在的に思っている人が聞いたら、嫌味でしょうね。
でも「家事は最低限困らない程度にやればいいし、あかぎれができたら痛いからちゃんとケアをするんだ」と思っている人にしてみたら、褒め言葉でしょうね。
もし、私がこれを「いやみ」と捉えて腹が立ったり、なにか言い返したい!!とか、ぎゃふんと言わせるなにか!と思ったとしたら、それはそれで「私がそうしたいなにか」があったということです。
なにかを我慢しているのでしょうね。自分を辛い状況に追いやっているのかもしれません。
「何かうまいことを言い返したい」と思うのはあたりまえです。
ただひとつ言えるのは、こちらが「うまいこと言い返した」と思っても相手はその通りに受け取ることはまずないってことです。
そして、相手がどういう意図で言っているのかも正直わからないってこともあります。
>>思いきって言ったときはいいすぎちゃったり、またはソフトすぎて伝わらなかったり、難しいです。
この加減っていうのも、正直、相手側の問題が大いに絡むので、できないと思っておいた方がいいです。
人間関係っていうのはやっぱり距離感ですよね。近すぎるとコントロールしたくなります。自分を抑圧していたり、禁止事項が多かったりすると、正しさの競争の罠に陥ります。
ふみまるさんはどうでしょう?思い通りにしたいとか、コントロールしたいとか、「相手が間違っている」と思うことはありますか?
もし、その相手がとても近くて、この先も一緒に生きていきたい思うの人なのであれば、一時の事象で折り合いをつけ続けるのではなく、根本的に「私という人間はこういう時はこう思っている」というベースになる情報をお伝えしておくといいと思います。それと同時に相手が嫌だなと思っている時にどういう態度や言動をとるのかを聞いておくのもいいと思います。
それをするためには、まずは「自分を知る」ことからでしょうね~。
「私ってこういう時にこう思うんだ」と客観的にみられるようになると、相手はどうなんだろう?と気になり始めると思います。
「なんで、こういうことを言うんだろう?」
「なんで、伝わらないんだろう?」
「なんで、私はちょっと強く言っちゃたんだろう」
と、自分責めではなく、ポジティブな自分発見のために起きた事象だったと思ってみるのがいいと思います。
目の前で起きていることはいつも正しく、そしてその問題からは必ず恩恵があります。
むしろ、自分がその恩恵を手に入れたくて、目の前で起きている事象を『問題』としてとらえたということはあると思います。
『問題の影に才能あり』です。
ふみまるさんは、息子さんが不登校になって、きっと大変な思いをしたと思います。それでもその問題があったからこそ、得難い経験があったんですよね。ふみまるさんもそれで飛躍的に成長しました。
目の前にある『問題』に「なんでこの問題は私の前に現れたんだろう?」とちょっと俯瞰して見てみるのがいいのではないかな?と思います。
ここまでは『思考』で行っていることです。
でも、やっぱり重要なのは『感情』だと思います。
「言い返せない」とか「うまい加減ができなかった」ということが起きた時、ふみまるさんの感情はどう動いているのでしょう?
推測でしかないですが…
「やっぱり私はダメなんだ」とか
「あいつが悪いんだ」とか
「別にどうでもいい」とか
そういう感じですかね? 「言い返せない」ことを問題視しているということは、その問題が起きた時に感じている感情を大切してみようということかもしれません。
自分責めをしてしまっているのであれば「そんなことはないよ」という声を心にかけてあげる。
「あいつが悪いんだ」と思うのであれば、心の奥底に罪悪感を積んでしまっているかもしれないから、そこをじっくり感じてみる。
「別にどうでもいい」は諦めという怒りが隠されているのかもしれません。
いずれにしても「そんな自分をかわいい」と思ってみてください。どんな感情を持っていても「そんな自分が愛おしい」と。
がんばり屋で、自分に厳しくしてきたのであれば、一旦そこをゆるめてみる。
「このままの自分でいい」と自分をまるっと受け入れる。
これが「自己受容/自己肯定感」だと思います。
『自己肯定感』という言葉が広く使われていて、なんとなくいろんな解釈があって「どれが正しいのだろう?」と思うこともあるかもしれません。
明日は春野式「自己肯定感とは」を書いてみたいと思います。
ご相談ありがとうございます。参考になれば幸いです。
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