自分掘り

合っているのか間違っているのかの判断、ジャッジは誰がするのか?

自分の選択が合っていたのかどうかなんて正直誰にもわからない。自分だってわからないし、他人だってわからない…はずなのに、なぜか私たちは正解を求めてしまう。

まぁ、しょうがないともいえる。

日々の言動から、人生の選択まで…正解を求め続ける。悪くないと思う。でもそれは、誰が決めているのか?

社会か?個人か?常識か?学校か?親か?兄弟か?先生か?

テストの答えには正解があるだろうけれど、その正解だって本当に正解かどうかわからないと私は思っている。

昔、宮本輝(だっとと思う)がエッセイで、自分の小説があるテストの問題文に使われているのを見たそうだ。そしてその問題は「この一文で作者が言いたかったことはなにか?」みたいな感じで、もちろんそれには、答えつまり『正解』がある。

その答えを見て、宮本輝本人は思ったそうだ。

「へぇ、僕はこんなことを言いたかったのか」と。

?????本人がそう思っちゃうのってホントに正解なの?と思う。でも宮本輝本人だって、なにが正解かなんでわからないんだそうだ。読み手がそう思えばそれは全部正解なんだそう。

こう聞くと「そりゃそうだ」と思うのだけれど、いざ自分に当てはめて考えると、なかなかそうはいかない。

自分は間違っていない。合っているのだとはっきり思うことはむずかしい。そう思うことは信念を持つということだろう。

それでも尚、「でもやっぱり」と思う。この決断が誰かを苦しめるのではないか?迷惑をかけるのではないか…?この思いによって孤立してしまうのではないか?

選択をし続けるということ

信念があれば、自分の選択し続けることはできる。でもたいていの人は家族だったり、近しい人の思いを汲んで、自分だけの信念にのっとった選択をせずに来ていることもある。

個人的にはそれでもいいと思っている。それもまた、自分の選択だから。

自分の選択であったはずなのに、振りかえってみたら誰かに感化された選択であったと気づくこともある。だかれといってその選択が「間違いだった」とは言えない。

その100%自分の選択ではなかったと気づいた時が、その過去の自分を救いに行ける瞬間なのではないだろうか。過去は変えられる、自分が自分を救いに行くことで。

私たちは、何もしなくてもどちらかを選択しなくても、前に進んでいく。ただ列車に座っているだけで未来へ運ばれていく。正直、なすすべはない。

だから、『選択しないこと」を選択したとしてもそれはそれで間違いではない。

「そんな時もあるよね」って思っておけばよろしい…と思っている。

今日はなんにもしていない

朝から1つも予定はない。いや、やろうと思っていたことはあった。掃除機を買いに行こうと思っていた。

掃除機が壊れて、ここ半年くらいほうきで掃除をしていた。困ってはいないのだが、なんとなくやっぱり掃除機があった方がいいかな?と思って3回くらい電気屋に行ったけれど、なんかよくわかないけど、買う気になれず未だ買っていない。

姉にも、息子にも、時には夫にも「掃除機は?」と訊かれるのだが、なんで私掃除機を買う気にならないのだろう?そこには何の信念もないのだけれど…。

で、意を決して絶対今日は掃除機を!!と思っていたのだけれど、やっぱりうかうかしているうちにお昼を過ぎてしまった。

掃除機ってやっぱりいらなくない?と心のどこかでおもっているんだろうな。

で、掃除機を買う買わない、掃除機がある家とない家のどちらが正解なのか?と考えると…

結局…まぁどっちでもいいんじゃね?と思っている。

どうしようもない記事ですが…

今日はなんとなく書く気が起きないから、ブログ書かなくてもいいかなぁ~と思っていたら、敬愛する岩橋カウンセラーがタイムリーにこんな記事を書いていたので、

なんでもいいから書くことにしてみた。

本当はブログという手段を通じて、読んでもらう方に、書き手の人物像を知ってもらったり、提供するサービスに興味を持ってもらったり、あるいは何か気付きを得てもらったり・・・、そういった目的があったはずなのに、いつの間にか「ブログを書く事」にしか意識が向かなくなってしまっている・・・。

 

と、上記のブログで、岩橋さんが書いていたので、書き手(つまり私)の何かを知ってもらうための記事を書こうと思って、こんなんなっちゃった日でした。

今まで手に入れたもの、自分の信念でも、選択でもなく「こういうものだから…」という誰かのジャッジで手に入れたものはないですか?

家とか、車とか、掃除機とか?・・・・・結婚相手とか(笑)

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