義実家から送られてくる『いらない』贈り物どうしていますか? 物であっても、食べ物であっても正直迷惑…と思っちゃうことってありますよね~。
義実家とはうまくやっていきたいし、いらぬ争いも起こしたくない。
これが本音ですよね。わかります、わかります。
でも、こういう小さい我慢の積み重ねが積もり積もるとどうなるか…?そもそもなんでこんなに迷惑に感じるのか?迷惑ならばなぜはっきりと言えないのか?言えないのであればさっさと捨てちゃえばいいのにそれができないのはなぜか…?
という話をここに検証していきたいと思う。
物をあげたいと思う心理
そもそも、なぜこちらの都合も考えずものを送ってくるのか?という心理について検証してみたい。
それはずばり「あげたいから」という事実に他ならない。
言ってみればこれだけ。そこに「なぜ?」という自分なりに真実を付け加えてしまうから、『迷惑』に感じたり『腹が立ったり』するのである。
事実と真実は違う。事実はひとつだが、真実はひとりにつきひとつ以上あり、その真実は他人にとっては真実にはならない。
あげる人にとっては理由はどうであれ「あげたい」だけである。それが相手のことを考えて、趣味嗜好を調べてそれに合ったものをあげようと、自分の好みであげようと、自分がいらないから押し付けることであっても、それはすべて集約すれば、ただ「あげたい」という事実しかない。
それで割り切れないのはこちらの都合
でも!でも!!と思うのは無理はない。
例えば私のお友だちの語り継がれる義母からのプレゼントは…
『胸元に大きくライオンが描かれているヒョウ柄の上下パジャマ』
だった。これはウケた。っていうかウケ狙いで「義母さん~これ、笑えますね~こんなの着れませんよ~」と言って欲しかったのでは?と思ったが、そういう方ではないらしい。
「そもそも、ヒョウなのかライオンなのかどっちかにしてほしい!!」と友は笑っていたが、そこでとった行動は「そのままリサイクルショップに売る」であった。
えええええ~それはできない!!だって!!と思ったあなた!
なぜできないのかを、なぜしたくないのか?を検証していこう。
そこに眠る罪悪感といい子(いい嫁)願望
「いらない」と思うことに罪悪感があるのかもしれない。
「素直に感謝できない自分」がダメだと思っているのかもしれない。
まずは、そんな風に思う自分さえも「そう思ってよし!」と自己受容してほしい。どんな感情を持ってもそれは決してダメじゃない。
物にしても、食べ物にしても、こちらが希望したわけでもない贈り物に関しては、こちらの手に入った瞬間に、所有権はこちらにあり、それをどうするかはこちらに決定権がある。
もし、それに関して相手がなにか言ってきたら、それは内政干渉である。人のものにとやかくいう権利はその人にはないと思う。
というと辛辣な意見に思えるだろうし、そうは思えないのは、あなたの心に潜むいい子になりたい→「いい子でなければいけない。だったそうしなくちゃ愛されない。みんなに嫌われてしまう」という思いではないだろうか?
そして、今までの人生で経験してきたことから「こうしなければならない」という過去の投影ということもある。
それは、両親からうけた何かかもしれないし、先生からの何かかもしれないし、友だちからの何かかもしれない。
それは人それぞれ違う。過去の経験は危機回避のためにとても重要なもの。だけど、過去に起きたことが今もまた同じように100%起きるだろうか?
そんなことはない。
こうしなくては相手がこう思うだろうからしない(する)というのは完全に他人軸である。
いらないものをありがたい振りして無理して使うのは、我慢することになり、また相手の「これあげるからありがたがりなさい」という取引に乗っかっていることになり、また他人の喜びのために自分の感情を犠牲にしている。
我慢、取引、犠牲…いい嫁の3点セット。
もし、今義親との関係が辛いのなら、嫌なら、腹が立つのなら…
脱いい嫁を勧めたい。
『鬼嫁ノススメ』である。
鬼嫁はわがままな嫁とは違う
鬼嫁の定義(春野が定義づけ)は…
常に自分軸
自分で選択する
すべてを尊重する
である。
この定義にのっとって、「義実家からいらないものをもらった時の行動」を考えてみたい。
① もらったことは大変ありがたいと感じる(尊重)
② 自分がそのものをどうしたいかを感じる(自分軸)
③ 誰かの思いに引っ張られずにそのものをどうするかを自分で決める(選択)
という行動をとってみたらいかがだろう?
その行動に対して、だれかがなにか言ってくるかもしれない。例えば前出の友人のお母さんが「あのパジャマ着て写真送って」と言ってくるかもしれない。
その時に「自分で選択してパジャマを売ったのだから、相手を尊重した行動を示す」ということになる。
自分はどうしたいのか?を常に意識すること。
この行動は、一般的にみると「わがまま」とか「空気が読めない」ということになるかもしれない。
自分軸を突き詰めると、それが決して「わがまま」ではないことに気づくと思う。
自己受容と、自己肯定感。
このふたつが楽に生きるキーワードになる。
そもそも「いらないもの」であったとしても、だれかがあなたを想い、あなたになにかをあげたいと思うってことは「愛されている」証拠だと思うよ。
たとえその考え方が「おめでたい」と思われたとしても、おめでたく生きた方がいいと思うよ!