心理学講座

学習障害のデコボコも、心のデコボコもフラットにしたがりがち【心理学】

もじゃもじゃ頭のカウンセラー 山本春野です。どうぞお見知りおきを。人間距離(じんかんきょり)を程よく守って、沈めてしまった本当のあなたを見つけるお手伝いをしています。

学習障害がある次男の面談があって、テストの結果を見せてもらった。テストの名前は教えてもらわなかったんだけど、あとでネットで調べたらたぶんこれだと思う。

『WISC-IV知能検査』

児童用の知能検査で、4つカテゴリーに分けられる。

で、このカテゴリーのデコボコ具合が結構重要らしく。

言語理解指標(VCI)
知覚推理指標(PRI)
ワーキングメモリー指標(WMI)
処理速度指標(PSI)

の4つのうち、次男の場合は、言語理解と、ワーキングメモリ―が平均より低く、知覚推理と処理速度指標が、平均より高いという結果に。

でね、こういう表を見せられると、やっぱり平均より低いところに目が行っちゃうもんなんだよね。ここを直さないとって。ここを平均に持って行かないとって。

これってさ、自己肯定感をね、上げるセミナーとかでよく出てくる話によく似ていると思ったの。

でっぱっている部分(できること、目立つこと)、引っ込んでいる部分(苦手なこと)があるでしょ。人はこのでっぱっている部分を下げて、引っ込んでいる部分を埋めて、フラットな状態にしたがる。

そうじゃなくて、このデコボコしているのが自分であって、でっぱっている部分を隠したり、引っ込めたりしなくていいという話。

自己肯定感は、このデコボコをそのまま自分なんだとまるっとOKにすることなんだから。

自己肯定感という言葉は「私は私のままでいい」ということです。 「明日は春野式自己肯定感について書きます」と言ってから、早数日。なんか色々バタバタしておりましたが、ようやっとひと段落しました。...

そうやって育てられてきた

どうしても、学校教育は大勢の生徒が1人の先生に学ぶことが多いし、同じことを一斉に教わるから、一人一人に合わせた○○をするのはむずかしい。

どうしても「いい」「悪い」という判断基準や、「普通」「変わっている」という区別もしたがるもの。

だから、そう思ってしまうのは無理はない。「そういうもんだよね」とさらっとしてしまった方がいいと思う。

私自身も『お勉強』ができなかったせいで「私はできない子」というレッテルを自分に貼って生きてきた。それは『学校基準』のできない子というだけだった。今思えば、全てにおいてできない子だったわけじゃない。

実際、こうやって文字を書いているし、ウェブサイトだって作っているし、カウンセラーとして話を聞くことができている。

それでもなんとなく心の奥底に「できない子」という漠然をした劣等感コンプレックスを抱えている。

もうそれってしょうがない。だってそうやって育ってきたんだもん。

だけどね、次男をみていて思うのは「おれはひらがなが苦手」ということを、今のところさほど気にしていない。

要は「困っていない」。

私にしてみれば、クラスのお友だちの名前を3人しか知らないっていうのは困るんじゃないかなと思うけれど、本人は「名前を知らなくても、話はできる」らしく…。

ひらがなが読めなくても、今のところ先生が問題を全部読んでくれるので、答えは書けるし…。

そこで「一生そうやって誰かにやってもらって生きていくわけにはいかない」という思いを持つ。

依存から自立へ。これをしていかないとダメだよね?と思う。

これで無理矢理『自立』させると、心に傷がつくと思うんだよね。

手立てをしてボコの部分は頼ること

面談中に『手立て』という言葉が出てきて、とてもいいなと思った。

「目的を達するための手段」っていうことかな。

例えば、小1の国語のテストの目的は、内容を理解しているかを判断することが目的。
算数の問題は、計算ができるかどうかをみるのが目的。

だから、ひらがなが読めない場合は『先生が読んであげる』。これが『手立て』

内容を理解していたとしても、それを表現するための「ひらがな」がわからないから、判断のしようがない。
計算ができるのに、問題文が読めないから計算ができない。

だから「手立て」をする。

目的はあくまでも「内容を理解しているかどうか」「計算ができるかどうか」。

ひらがなができるかどうかを調べるテストではない。

私たちも、なにか目的を達成したいと思う時、苦手がことがあったらどうするか。

その部分を『手立て』すればいいじゃないと思う。でもどうしても私たちはその『苦手』を克服しようと躍起になる。誰にも頼っちゃいけない。全部やらなきゃと思ってしまう。

ボコは埋めなければと思ってしまう。

自立する時に、何かしらの傷を追って無理矢理自立しちゃったからかな。

自己肯定感をあげたいなら

『自己肯定感』っていろんな解釈がある。私はこの『デコボコ』をそのまま凸凹として認めていることが『自己肯定感』だと思う。

ボコの部分をそのままにしておいていい…というわけではないけれど、このボコの部分にばかり目を向けなくていいとは思う。

ボコの部分は誰かに頼ればいいし、なにがしかの「手立て」をとればそれでいいじゃないか。

何よりも、デコの部分を誇りに思っていいじゃないか。

デコの部分は『得意なこと』。これを伸ばせばいいじゃない。
ボコの部分は『苦手なこと』。だけどもしそれが『好き』ならば、どんどん磨けばいい。

どんな自分もOKなんだから。

 

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